我死ぬる我のすべては我ならず オーボー真悟

 けさ読んだオーボー真悟さんのこの句は、わたしの胸につきささる。
 自分は死ぬのだから自分のすべては自分自身ではないのだ、という哲理は、深く新鮮です。

 先生の句 英訳もされ普通話、台湾語でも詠まれていて

  I shall die
  All of mine
  Is not me

  我往生我的一切不是我 (普通話俳句)
  我往生我丌一切伓是我 (台湾語俳句) 

   http://oobooshingo.blogspot.com/2010/07/32.html

 死ぬということと「自分のすべては自分自身ではないのだ」ということことの二物衝突にはその因果関係、論理展開などを解き明かす答えなどなく、その答えをめぐって読者の想像力を無限に刺激する。だから、この句は、俳句なのだ。

 「我は死ぬ」ということは、全人類普遍のキーワードだが、無理やり季語を使ってみると、

   除夜の音や我のすべては我ならず

   師走る我のすべては我ならず

 俄然、日本の俳句めいてくる。とすると、「我は死ぬ」には、季語と同様の位置にあり、働きがあり、季語と置き換え可能な機能があるのだ。
 ここに、世界の俳句が、季語を墨守しないわけがある。
 しかし、俳句には季語がなければならぬと考えている日本の俳人には、そのことが理解できず、金輪際、先生の句のような哲理に富んだ佳作を詠むことができない。
 そして、俳句の師に、季語がなければならないという固定観念があれば、

   我死ぬる我のすべては我ならず → 師走る我のすべては我ならず

 と筆が入れられ、詩法では写生が優れているという固定観念があれば、

   師走る草履の音は我ならず

 などなど朱筆が踊るのだろう。

 日本の俳句は、季語によって得たものもあるが、失ったものもあることを、重々肝に銘じておくべきです。

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